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2015年8月

2015年8月31日 (月)

出版協 『新刊選』 2015年9月号 第35号(通巻259号)

1P …… 栗田出版販売の民事再生が意味するもの
高須次郎緑風出版 )●出版協会長
2P ……1P続き
3P ……出版協BOOKS/9月に出る本
4P ……出版協BOOKS/9月に出る本

栗田出版販売の民事再生が意味するもの

栗田出版販売の民事再生で出版業界は揺れている。この件については、前号で竹内副会長の的確な分析があるので、他のテーマにしようと思ったが、やはり気になる。この春、栗田がTRCとの取引を始めるとのことで、出版協の会員社も積極的に同社に協力したが、私自身、うかつにも事態がここまで深刻とは思っていなかった。協力してくれた会員社にはお詫びの言葉もない。取次大手3社との取引額に比べると大きな差があるとはいえ、この未曾有の出版不況の中で四苦八苦している中小零細出版社としては、入金予定が狂い金策に走り回っているところも少なくない。広告を減らしたり、在庫を切ったりと、これ以上やるところがあるのかという経費節減に頭を悩ましている。しかもあの民事再生案スキームなのだ。

この再生案の問題点は、あとで触れることにして、問題は再生案が認められたとして、はたして栗田は再生できるのかということだ。栗田民事再生について出版評論家の小田光雄は、「栗田の民事再生をめぐる問題は単なる取次の破綻ではなく、まず現在の正味体系と再販委託制に基づく近代出版流通システムの崩壊を、ついに露出してしまったことにある」(出版状況クロニクル87)と指摘している。氏自身は栗田帳合の有名書店で長らく店長を務めるなどの経験がある。筆者は氏の再販不要論には与みしないが、考えなければならない問題点も多々あると思う。

まず「現在の正味体系」を中心とした取引条件の問題点に踏み込むことなしに、取次店の再生はないのではないか。ご承知のように出版社が販売価格を決定できる再販制度を前提に、定価の何掛けという形で現行の正味体系はできている。この正味が今や1割以上の格差になっていることである。大手・老舗版元、医書などの正味は一般に限りなく高く、中小零細・新規版元は限りなく低いのだ。高い正味では7.5掛けなどはざらで8掛けなどというのもある。

次に、歩戻しと呼ばれるバックマージンである。新刊委託をはじめとして、長期委託、常備寄託などさまざまな名目での販売協力金であるが、中小零細、新規版元ほど多くのパーセンテージを強いられている。

また、販売代金の支払い条件である。中小零細、新規版元は、新刊は6カ月精算、原則翌月払いの注文品にも、納品額の3割が6カ月間支払い保留されるなどの注文品支払い保留が強いられる。一方、大手・老舗版元には、原則6カ月精算の新刊が翌月に全額ないし一定割合が支払われる内払い、条件払いが適用される。しかもこの内払いが好条件であればあるほど出版社は量産体制に入れる。これが粗製濫造、高返品率の温床ともなるといわれている。それ以外にも集品の有無、返品運賃などさまざまある。こういうことを一切合切併せれば、同じ本を卸す場合でも、取引条件に大手・老舗版元と中小零細、新規版元とでは、実質的に1割から2割の格差を生じることになる。しかも高正味など好条件の大手・老舗版元のシェアは圧倒的である。出版協は流対協時代から、高正味の圧縮、最低取引条件の保障、差別的な取引条件の是正を求めて活動してきたが、こうした取引格差は改善されることなく、むしろ広がるばかりで、今日に至っている。中小取次店の倒産・廃業もさまざまな要因があるが、原因のひとつとしてこの問題がある。

鈴木書店の倒産は2001年だったが、この原因のひとつに高正味問題があった。同社は専門書の老舗版元などの高正味の本を、逆に一本正味(統一正味)で卸値が低い大手書店や大学生協に卸していた。当然マージンは少ない。運ぶだけ損という冗談まで出る始末で、逆ざやで自己破産してしまった。支払いの繰り延べに協力したなど、いかにも支援したようなことを老舗版元にいわれても、そんなことなら正味を下げてもっと普段から協力していたらと言いたくもなる。中小零細、新規版元は普段から低正味など必要以上に協力しているからだ。栗田やその支援にまわる取次店にしても、こうした事情はついて回る。栗田は再生前に高正味版元の取引条件の改善に回ったそうだが、うまくいかなかったという。出版不況による返品率の悪化、書店の倒産などは取次店の経営をもろに直撃するが、高正味仕入れ低正味卸の低マージンも取次経営を圧迫する。アマゾンと取引のあった取次関係者は、取引量は多くても利益はでないとこぼしていた。栗田にしても6期も経常利益のでない状態、本業で黒字のでない状態は普通ではない。経営責任などさまざまな要因があるとしても、低マージンの問題もあったと考えられる。栗田の民事再生は、「現在の正味体系」の改善、すなわち高正味の引き下げ、内払いの縮小、最低取引条件の設定などの業界的取り組みを提起しているといえよう。

以上の問題を踏まえ、栗田の民事再生案を考えてみる。凍結された再生債権についても、もともと大手・老舗版元はせいぜい1~2カ月分の貸し倒れで、中小零細、新規版元は5~6カ月分の貸し倒れになり、同じ貸し倒れでも中味に差がある。このことを問題にしたくても、個々の契約の問題であり、民事再生法とは関係ないということになってしまうのであろう。債権額上位に入る新興版元の代理人は、「それにしても取引条件に差があり過ぎるんですよ。でも再生法上は問題にならない」と嘆いていた。

この再生案スキームはもともと説得性に欠ける。7月6日の債権者説明会で、版元の不満が爆発したのは当然である。債権者説明会までは、出版社の社外在庫である常備寄託品まで凍結される再生債権に含まれていて、これについては代理人の認識不足だとの版元の猛抗議で外すと説明されたので、ひとまず鎮静化したが、書店在庫の返品を大阪屋経由で買い取り、大阪屋口座の支払いから減額控除されることには、「人の道に反する」との抗議まで飛び出した。栗田の返品率は45パーセント程度だから、1000万円の貸し倒れがある版元は新たに450万円の返品を大阪屋から買うことになり、合計1450万円の損ということになる。鈴木書店のケースでは、貸し倒れ金1000万円から返品入帳期間半年間あまりで、450万円の返品があり、最終精算の貸し倒れは550万円ということになった。2.5倍以上の差がある。版元としても取引先が倒産した場合、債権額までは覚悟しても、それ以上に負担を強いられるいわれはない。同じ貸し倒れ額でも、前記のような取引格差を強いられた中小零細、新規版元としては、同じ負担を求められることにはどうにも納得がいかないという、さらなる不満が残る。

しかし問題は次の点にある。集会では、代理人から、取次店からの返品については、「返品が予定されている出版物の取引は、買主(取次店)のみに片面的な解約権がある売買取引」(説明会資料9よくあるご質問と回答)なので、出版社は「返品を受け入れていただく義務がある」(同)と説明された。委託、注文、買切などこれまでの商ルールを無視した発言に、債権者は呆れてしまった。「他方、大阪屋は旧商品の買主ではないため、買主としての解約権の行使としての返品をすることはできません。(中略)大阪屋が栗田出版(注=6月26日以降の新生栗田)から買い取った出版物を買い取っていただくことを申し込むものであり、出版社様において、これに応じていただく義務まではございません」(同)との説明があった。一応買い取り義務はないという。

しかしこれも変な話である。旧栗田(民事再生した6月26日以前の栗田)は新生栗田として民事再生中なので、市中在庫を含む出版物は栗田への売掛金=貸倒金=凍結された再生債権になってしまっていて、誰も動かしようのできないものである。債権債務が凍結されていれば、商品の動きも凍結されなければならない。しかし現実には、新生栗田は取次業務を再開し、返品が生じる。これをどう扱えばいいのか?
例えば凍結再生債権となっている小社の出版物が売掛金として100万円あるとして、そのうち仮に40万円分が返品されることになったとしよう。平常なら売掛金と相殺され売掛金残高は60万円となる。しかし凍結された再生債権は動かせないので相殺しようがないという。ではどうするか。返品を引き取るには40万円分の取引がそもそもなかったことにするしかない。つまり新生栗田は小社に出版物40万円分を0円で返品することで、つまり小社は0円で歩安入帳をすることで、小社の再生債権を事実上60万円に減額するしかない。新生栗田が「再生債権はいじれないので、25日以前の商品の返品はただでお戻しします。どうもご迷惑おかけしました」といって、お詫びかたがた持ってくるのが筋というものであろう。

ところが、再生案スキームは逆に返品を買い戻せという。再生案スキームに皆が何となく釈然としないのには、こういう落とし穴、カラクリがあるからだ。新生栗田にはそもそも納品していないのだから返品が生じるわけはないのだ。旧栗田時代の返品を新生栗田で返品しようとすれば、いま述べた方法しかない。それを大阪屋経由で出版社に買わせようというのは、アルゼンチン映画「華麗なる詐欺師たち」などに登場する釣銭詐欺の上を行くようだ。再生案スキームは悪くいえば“詐欺まがい”、良く言えば“錬金術”なのである。これに対応する実務としては栗田からの返品はすべて受け取り、適当な時期に0円で入帳することである。これは争っても勝ち目がある。そして、旧栗田時代の返品を精算しようとすれば、それまでは新生栗田に直接卸すことは出版社として得策ではない。大阪屋その他の取次経由で栗田帳合書店に納品するしかないことを理解していただきたい。小社もそうしている。再生案スキーム自体に無理があるから、こうせざるを得ないのである。

出版協は7月10日、「栗田出版販売民事再生案スキームを撤回するよう求める」声明を発表した(付録参照)。老舗版元も納得できない。再生案二次卸スキームに質問する「有志の会」を組織し、偕成社や有斐閣、インプレスなど専門書版元中心に約58社が事実上反対に回った。このスキーム案が裁判所で認められれば、考えたくはないが次の取次店危機の際に適用される可能性が大だからである。そして、それに伴う出版社への影響は致命的なものとなろう。
版元の強い批判で譲歩案が示されたが、7月24日締め切りで回答回収率65%、承諾率は債権者数で80%程、やっと半分ということらしい。スキームそのものに変更はない。出版社の冷ややかな反応が垣間見える。

栗田民事再生は、来春3月の吸収先である大阪屋との連携で準備されたものであろう。本社の売却を含めすべての不動産を売却し、今年春には資産二十数億円を減額評価替えするなど、身軽に身綺麗にして、6月26日金曜夕方の民事再生申請、間髪を入れずに大阪屋の栗田支援表明を筆頭に二次卸スキーム案の説明から請求方法まで16枚のFAXによる再生通知、29日月曜には講談社・小学館・集英社連名による栗田および帳合書店向け支援声明--見事という他はない。出版社の売掛金を丸ごと踏み倒し、大阪屋経由で返品を出版社に買わせ、大阪屋から支払い控除すれば、大阪屋の支払いも減るし、それを元手に栗田の民事再生を図れる。「倍返し」でトリプルウイン--誰が考えたか知らないが凄い錬金術だ。
 栗田からは帳合書店向けに「出荷制限版元一覧」が、定期的に配布されている。8月7日現在のものをみると、ベストテンにはいる版元や各ジャンルナンバーワン版元を含め約150社が名を連ねている。帳合書店への情報サービスではあろうが、この「非協力出版社リスト」は書店からのイメージダウンを怖れる版元の弱みを突いている。
確かに日販、トーハンの寡占の弊害を防ぎ、アマゾンを牽制するため、大阪屋-栗田連合などの第三極が必要不可欠なことは、版元なら誰でも理解している。しかし、そのためにはなり振り構わなくていいのだろうか? 出版協は声明で、再生案スキームについて「商道徳・商慣習に反する」と指摘したが、やはり「人の道に反する」ものなのかも知れない。今からでも遅くはない、別の道を探るべきであろう。

【付録】

 栗田出版販売民事再生案スキームを撤回するよう求める
         2015年7月10日
  一般社団法人 日本出版者協議会
          会長 高須次郎
                   
7月6日に栗田出版販売民事再生申立てに関する債権者説明会が開かれ、民事再生申立代理人弁護士から民事再生計画案の説明があった。
この再生計画案のスキームは、出版社に売掛金の放棄を強いるばかりでなく、出版社の同意が必要とはいえ、民事再生申立日の前日である6月25日までの栗田出版販売への搬入出版物の返品を大阪屋経由で出版社に返品入帳させ、大阪屋の支払いから控除するという、出版社に二重に負担を強いる内容である。
これによれば、仮に1000万円の売掛金を持つ出版社は1000万円を失うだけでなく、栗田出版販売の返品が5割ある場合、さらに500万円分の返品を大阪屋経由で買い取らされることになり、合計1500万円の過重な負担を強いられることになる。
債権者説明会でも出版社各社の怒りが爆発したように、売掛金を失うばかりか、自社の返品を大阪屋経由で買わされるなどという事態は、およそ商道徳・商慣習に反するものであり、債権者の利益を不当に害するものであって、絶対に許されるものではない。この再生計画案スキームは栗田出版販売の膨大な債務を、すべて出版社に押しつけた上で、同社を身軽にして帳合書店ごと来春、大阪屋に統合しようという乱暴で身勝手な計画といわざるをえない。

このようなことが許されるならば、すでに始まっている連鎖倒産が示すように、多くの出版社が経営危機に追い込まれ、日本の出版文化は危殆に瀕することとなる。
中小出版社90社で組織される日本出版者協議会は、民事再生申立代理人並びに栗田出版販売に対し直ちに再生計画案スキームを撤回するよう求めると共に、裁判所におかれては、かかる債権者の利益を不当に害する再生計画案を認めないよう強く要請する。     

高須次郎緑風出版 )●出版協会長

2015年8月28日 (金)

国立大学の「文系学部廃止政策」に反対する

安倍政権下にある文部科学省は、20156月、全国86の国立大学に対し、今後6年間に教員養成系および人文系の学部の廃止、または再編成を行うよう指示を出した。20136月に閣議決定された「国立大学改革プラン」を受けたものであるが、「独立行政法人化」「グローバル化」の押しつけで、今や国立大学は徹底した経済の論理によって文科省に支配されている。文科省の矢継ぎ早の要請で教員への労働負担だけが増え、文系大学の予算配分も権限も削り取られている。すでに地方の国立大学では私立大学への教員の流出が始まっている。

大学教育は金儲けのためにあるわけではない。日本は明治以来、全国に国立大学を設立し、奨学金制度を充実させて、できるだけ多くの若者たちに就学機会を提供しようとしてきた。それは若者が日本の未来を託すことができるような市民的成熟を果たすように支援するためである。国立大学が自国の歴史や文化に対する愛着も関心もなく、ひたすらグローバル資本主義に邁進し、高い地位と年収をめざす学生たちの競争と格付けだけのための場になった国に未来はないだろう。

安倍政権の「教養の必要性の軽視」という教育政策が進めば、政治や社会への批判的視点を持てない、物言わぬ専門家ばかりが育成されることになる。戦前のファシズムへ逆戻りである。そして、日本の出版不況はさらに危機的な状況を迎えるだろう。このままでは、大学教育が重きを置かなくなる人文・社会科学の書籍の需要が急激に低下することは間違いないだろう。

「人間とはなにか」「社会とはなにか」「学問とはなにか」を問い、先人の知的蓄積を継承し、未来を構想するのが「文化的教養」だろう。若者がそれを享受できるような社会にするためにも、今回の国立大学の「文系学部廃止政策」には強く反対するものである。

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