「空気なんか、読まなくていいじゃない。ほんを読もうよ。」のキャッチフレーズの下、第0回出版協ブックフェスを9月9日に東京の神保町近くで行いました。関係各位の皆さま、またご来場くださった方々に感謝の言葉を申し上げます。
今年の夏はこうしたイベントをはじめ、いくつかのトーク会、フィールドワークや展示会に参加しました。その中で今回の「遺品が語る沖縄戦」の展示を見る機会をえました。場所は大阪市内のさるお寺の中で実施され、この後、ほかの地域でも開催の予定ということです。
沖縄は、1945年3月、先の太平洋戦争でご存知のように日本で地上戦が行われた唯一の地です。その沖縄で、各地の壕に入りながらたった一人で沖縄戦の遺骨・遺品を収集されてこられた国吉勇さんがおられます。その方は老齢のため、2016年3月に収集をやめ、ご自身が造られた戦争資料館で約12万点の遺品を展示し、来館者に自ら説明されているそうです。
展示会は、この遺品を保存・継承することと、収集の活動を全国に向けて発信することで、沖縄戦の凄惨さを全国で共有し、これからの平和について議論する場を創出することをめざした若者たちが、開催しました。
今回の展示は、沖縄にある戦争資料館から53点を選んで運んでこられたものです。70年以上も経っているモノばかりですので、輸送や収納の作業など大変だったとのことです。すべて当時の「現物」であるため、見る側では直接に手で触れたり、持ちたくなる方もいます。そのときは主催の方々が瞬時に、そしてやさしく注意をしています。53点の内訳は「住民の生活用品」が11点、「壕を支えた道具」6点、「日本軍の武器」10点、「医療を支えた道具」14点、「日本兵の持ち物」12点でした。
どれも年数物ですが、カタチはそれなりに分かるモノばかりでした。それらが見つかった場所やその状態の説明文を読み、また話を聞きながら、「現物」から受けた私の衝撃や感想を文章で伝えるのはなかなか難しいことですが、以下、数点について、その紹介をさせていただきたいと思います(以下の文章で「 」は各々の遺留品の説明書からの引用です)。
糸満喜屋武陣地壕で収容の万年筆(住民の生活用品)は「余暇時間に壕で手紙を書くのに使ったもの。多く出土する遺品の一つで、…戦争資料館にも200本以上収容されている。当時、万年筆にフルネームを彫り込む習慣があったため、遺族に返還できることも多い。」
糸満大里陣地壕で収容の工作用のドリルの刃(壕を支えた道具)は「壕を掘るときの工作(例えば壕に電気を通すために壁に穴を開けるとき)に使われた。ドリルの刃が収容されたのはこの1点だけ」とのことです。
真玉嶽陣地壕で収容の陶器製手榴弾<残骸>(日本軍の武器)は「鉄不足のため、沖縄の伝統産業である陶器で作らせた手榴弾。投げにくく、殺傷能力も金属製には劣った。」
曲がった注射器(医療を支えた道具)。糸満新垣病院壕で収容。「ガラス製だが、火炎放射器で焼かれたために変形した。当時の壕の温度は1300度に達したと推測される。」
杯(日本兵の持ち物)。白梅の塔の壕で収容。「銅製、切り込み隊が切り込みを行う前に、酒を飲み交わしたときに使われたと思われる。追い詰められて人が結集した場所などでまれに発見されることがある。」
一式固定重機関砲<残骸>。「収容されたそのままの形を復元したもの。激戦地の壕のヘドロの中から出土した。重機関砲は1点しか収容されておらず、大変貴重である。重機関砲は、当初戦闘機の零戦に付けられていたものであったが、地上戦が激化したとき零戦から外して地上戦で使われたこともあった。今回は展示していないが、この銃と共に三脚が出土したため、地上戦で使われた可能性が高い。」展示者の話によると、地上戦では3分位しか続けて撃てないとのことです。熱を持ちすぎて支障が出るため、休んで冷やさなければならないとのことでした。あの零戦で使うなら風圧で冷却されるため休む必要はないとのこと、まさに飛行機で使用するための武器としてつくられたものです。
今の沖縄における基地問題などを考えるうえでも貴重な機会であり、とても感慨深い時が過ごせました。